300年前の絵図を守り続ける

野底山 絵図干し

皆さんが真剣に見入っているこの大きな図、一体何だと思いますか?

 

なんと、300年前からここ上郷地区に伝わる野底山の絵図なのです。

 

縦約4メートル、横2.5メートルもあるこの絵図は、元禄年間に起こった、上郷旧5か村と上飯田村東野の野底山の入会権をめぐる論争の末決着した、山の利用権の境界を表したものです。

 

野底山森林公園のある上郷地区の公民館では、毎年この時期に絵図や各種資料を、虫干しを兼ねて一般公開しています。

 

山の恵みに頼らなくなってしまった現代の生活からは、なかなか実感することが難しいことかもしれませんが、つい一昔前まで、人々は、田畑の肥料や日々の燃料の薪などをほとんどすべて山から得ていました。

山は個人のものである場合や村のものである場合、数か村で共同利用をしているケースなど様々でしたが、その利用の仕方には地域ごとに細かな取り決めがされていました。

野底山の場合、江戸元禄の頃には、地元の別府、飯沼、南条、下黒田、上黒田の五か村は薪を刈って現地に置いておいてもよく、また一日何回でも入山しても良いことになっていましたが、山利用の権限の弱い隣村の東野は、刈ったものを置いておくことは許されず、入山は日帰りのみと決められていました。

ところが、元禄12年(1699年)の11月、東野の百姓が野底山の山奥に小屋がけをして刈った薪を置いておいたことがわかり、五か村は東野の入山を禁じます。

それに対し東野も、入山を禁じられては困ると、領主飯田藩の奉行所に訴えますが、飯田藩の役人は地元五か村の言い分に耳を貸さず、東野側に有利に取り扱おうとします。

地元五か村としては全村民の生活にかかわることです。黙っていられません。本来幕府への直訴は許されていませんが、五か村代表はひそかに江戸へ赴き、幕府の役人に訴えます。

飯田藩としては面目丸つぶれです。五か村代表は捕縛され籠で飯田へ送り返されるものあり、村を追放されるものあり、紆余曲折の末、宝永2年(1705年)、やっと五か村の言い分が通り、決着を見ます。

 

この絵図には、その時に定められた草刈り場の区分などが記されているのです。

幕府が下した裁許書(判決書)も大切に保存され、この日絵図と共に公開されました。

 

人々の暮らしが山との結びつきなしには成り立たなかったからこそ、地元村民は一丸となって、子々孫々のために、時に命を懸けて生活の糧を守り抜こうとしたのでした。

 

そしてそうやって命がけで山を守った人々のことを、誇りに思い伝え残そうとし続けた後の人々の努力もあって、今こうやって私たちがこの貴重な資料を目の前にして300年前に思いを馳せることができるのですね。